実習で男をあげたのがゴーちゃんで哀れをとどめたのは猪村であった
海軍砲術学校の四カ月に続いて後五ヵ月の合同実習がある。技術科士官全員、呉海軍工廠付という肩書で、工廠の中では実習中尉と呼ばれて機械工作の実習をやらされる。
早出の高等官迎えのバスに乗せられて、工廠に入るとすぐ作業服に着替える。海軍の服装規定では軍服の下にはワイシャツを着ていなければならぬのは勿論だが、詰め襟の軍服の下にも蝶結びのネクタイを付けることになっている。詰め襟の軍服の下のネクタイは省略する人が多かったが、外国で、または外国の軍艦を訪問するときはこのネクタイを忘れないようにとの注意があった。何かの都合で上着を脱いだとき、ネクタイなしのワイシャツ姿ではだらしない感じを与えるのだそうだ。
工廠内の実習中尉の格好はまことに哀れなものだった。規則から言えば作業服を着る場合にもその下はワイシャツにネクタイを付けていなければならないのだが、暑い時に暑い工場で暑い作業をする場合、そんな規則にかまっておれなかった。軍服と一緒にワイシャツも脱ぎ捨て、半袖のシャツの上から作業服の上着を着て、実習工場へ赴くのである。実習工場では安全の見地から上着をぬいではいけない場所もある。そんな場所ではおまけに鉄板が入った安全帽までかぶらされて汗みどろになるが、安全上のお許しのあるところでは作業服の上着も脱いで、半袖のシャツだけになる。そのシャツがたちまちうす黒くよごれて、哀れな姿になるのである。
この実習で男をあげたのがゴーちゃんで哀れをとどめたのは猪村であった。木型作り、砂型作り、鋳物と進んで、次は仕上げの実習に入り、たがねを使う練習になると、指導員の伍長さんがゴーちゃんの腕前に眼を丸くしてびっくりした。その伍長さんは工廠の工員養成所を卒業した後何年間かたがねの仕事だけをやってきた専門家だから、その伍長さんがびっくりするのは相当高度の技能である。
猪村のような初心者にはごむで作った鍔のようなプロテクタが渡され、これで左手を覆って右手でハンマーを振るのだが、ハンマーはたがねの頭を叩くかわりに自分の左手を叩いて猛烈な痛さだった。この痛さが身にしみて、こわごわハンマーを振るので何回叩いても、たがねで鋼鉄の棒を叩き切ることはできなかった。たがねの練習の間猪村は左手を腫れあがらせていただけで、たがねの使い方は一向上達しなかった。
次はやすりの練習である。鉄のブロックからやすりを使って六面体を作るのだが、猪村がやすりをかけた面は蒲鉾型に中央が盛り上がってどうしても平面にならなかった。
仕上げの実習が終わると工作機械の使い方の実習に入る。最初が旋盤の実習であるが、これはもともとゴーちゃんの本職である。ゴーちゃんは実習教程で定められている製品をたちまち作り上げてしまい、何処からか残材を貰ってきて、色々高度な作品を作っていた。その頃になると大山造機中尉の腕前の程が工廠内に知れ渡って、昼休みの時間などにゴーちゃんの作品を見学に来る者が出はじめた。実習中尉共が旋盤の実習をしたのは砲こう部の第一工場という機械工場であったが、旋盤のようなありふれた工作機械は工廠内の方々にあり、当時呉海軍工廠の従業員の数は五万人を越していて、旋盤の名人とも言われる工員も多数いたが、その名人達がゴーちゃんの作品に感心するのだから、ゴーちゃんの腕は大したものだなあと猪村は思った。 猪村自身は何回やり直してみても、ねじの山と谷とがゲージに合わず、またおしゃかを作ったか、おれはどうしてこんなに不器用なんだと泣きだしそうな気持ちになっていた。