世の中の各種のオーソリティはまあその程度
オーソリティと言えば第二回の乗艦実習中の猪村でさえ、電信科の下士官からはオーソリティと言われていたのだから世の中の各種のオーソリティはまあその程度のものだと思っている。
そして、誰が何と言おうが、開戦当時の日本海軍の潜水艦作戦は間違っていたと信している。
この頃から誰に向けることも出来ない怒りが猪村の心の中に巣くっていて、周囲の人々に当たりちらし、相手の面目をまるつぶしにしていささかの同情をも感じない悪い癖が生地を表してきた。
「猪村さん、あんたはこわいよ、そんなこわい人は世の中で出世しないですよ。少し気をつけなさいよ」
と忠告してくれたのは権堂さんだった。
権堂さんは猪村と同郷で、猪村より六歳年長だったが大学を出たのは猪村より一年後で呉海軍工廠へ工員の身分で入ったが、同期に大学を出て工員の身分で海軍に入った人達に大分遅れて高等官七等の海軍技師(中尉相当)に任官し、猪村と一緒に無線工場で働いていた。
権堂さんは、酒を飲む時も、煙草を喫う時も、世にも楽しげな顔をしていた。
猪村は権堂さんのこの顔を見る度に南洋群島の島民を思い出す。
南洋群島の島民が日本人を見ると、「あんなに、せかせか働いて人生の楽しみも知らない馬鹿者共が」と内心軽蔑しているに違いないと猪村は考えているが、その彼等に酒を飲んでいる時の権堂さんの顔を見せてやれば、彼等は「日本人の中にもこんな立派な人もいるのか」と感心するだろうと思うのである。
「ご忠告どうも有難う。今後気をつけます。然し、権堂さんにこわい人なんかあるのかね。あんたせんだって、園原さんを電話で叱りつけてたじゃないの」
「あれは失敗しました。園原さんが無線工場主任に来るとは知らなかったものですから」 猪村が造兵少佐に進級したと同日、主任の村田さんは造兵少将に進級して新設の沼津海軍工廠の 部長に転勤し、艦政本部部員であった園原造兵中佐が大佐に進級して村田さんの後任に来たのだが、その十日程前、権堂さんは園原中佐を電話で叱りとばしたものである。
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