「本船には天測できる者おらず、天測用具もなし」
折り返して船から、
「本船には天測できる者おらず、天測用具もなし」という電報がくる。猪村はこの電報を見て呆れ返るやら青くなるやらである。
冗談じゃないよ。天測ができないのに、あの船長はマーシャル群島まで行ってまいりますなどと勇ましいことを言ったのか。
それにしても南洋ボケとは言え俺もまた随分ぼんやりしていたものだ。そういえば、あの船のブリッジには航海年表が見あたらなかったが。
あのときただ一言、航海年表 はどこにしまってありますかと質問しておけば、こういう馬鹿げた失敗はしなくてすんだんだが。
鎮守府も鎮守府だ。マーシャル群島まで回航するという要求仕様に対して天測のできない船をよこすとは何事だ」と自分自身を始め関係者一同の間抜けさ加減に呆れたが、とにかく大事故の発生にならぬように緊急処置をしなければならぬ。
猪村は心を落ち着かせながら色々考えた結果、短波方位測定によって船の位置を測定してやろうと決心した。
呉海軍工廠で短波方位測定機の試験をしたときは不規則誤差が多くて「こんなもの実用になるかなあ」とあやぶんていたがその後、猪村自身がその恩恵に浴したことがある。
サンチャオ島からの帰途猪村の乗った船が沖縄の近くで大暴風雨に遭い、位置が分からなくなってしまった。暴風雨が通過した後、ほぼ東西方向の一本の位置線は天測で決定できたが、もう一本南北方向の位置線が欲しいという話を船のサロンで一等航海士が船長に話しているのを聞いた猪村は佐世保鎮守府の通信参謀に電報を打って短波方位測定を依頼した。
その電報を見た船の無線局の局長は不 思議そうに、
「こんなに遠距離で方位測定が出来るのですか」と猪村に質問した。その頃の商船にはループアンテナ式の方位測定機が装備されており、この方位測定機では短波の方位測定はできず、有効距離も短かかったから局長が不思議に思ったのは尤もである。
「あまり精度はよくないんですがね。短波の方位測定機が陸上に装備されているんです。試しにやってみましょう」と猪村も余り自信のない返事をしたのだが、そのときの測定精度は大変良好で船から感謝された。
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