沖ノ島は福岡県宗像郡に属し玄海灘北方の海上にポツンと孤立した小島
沖ノ島は福岡県宗像郡に属し玄海灘北方の海上にポツンと孤立した小島で、近ごろの中学生の地図にはこの島を書いてないのがあるが、古事記にはちゃんと出ているから七世紀頃の大和朝廷では 良く知られた島であったにちがいない。
南の海から流れてくる黒潮の支流のまっただ中にあり、だ鳥の卵くらいの大きさの円い石ころが積み重なって島が構成されていて、南洋から種子が流れついたものであろうか、熱帯性の樹木が島 内を被い、円錐形の島の頂上に神社が鎮座し、そのそばに測候所の建物があるだけで、一般の民家はなかった。日露戦争の日本海海戦における両軍の砲声はこの測候所でよく聞きとれたという。
古事記の文章に、
「たきり姫のみことは宗像の奥津宮にいます。次に市き島姫のみことは宗像の中津宮にます。次に田きつ姫のみことは宗像の辺津宮にいます。この三柱の神は宗像の公らのもちいつく三前の大神なり」とある所から見ると現在の宗像神社は七世紀の昔にも現在の位置に存在したのであろう。古事記の神代の巻の記事からすれば、この姫宮たちは天照大神の娘である。ことに沖の島にある奥津宮のたきり姫のみことは天照大神のご長女であり、ここの神社の格式は天照大神ご自身を祭る伊勢の皇大神宮の内宮に次ぐものとされている。
天照大神の姫宮達が、何故こんな所に祭られているのであろう。古事記に天の安の河原における須佐之男のみことと天照大神との和平条約に関する記事がある。この辺の記事は歴史的事実には関係ないかも知れぬが、猪村は興味本位に勝手な読み方をする。 須佐之男のみことと天照大神は玄海灘の制海権について争ったのであろうか。その当時出雲の国は大きな文化圏であって、瀬戸内や九州あるいは朝鮮から出雲に到る海上交通の要衝として玄海灘の制海権は相当重大な権力であったのであろうか。
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