校長さんのお宅は飛行場に近かった
校長さんのお宅は飛行場に近かったし、割合広い家に校長さん夫妻と女中さんだけが住まっているので、猪村が泊めて貰う余裕があった。飛行場の近くには旅館はなかった。航空隊の隊内に泊めて貰うこともできるが、戦死者が出たり、その補充員が着任したりする雰囲気を考えると気がひけた。
校長さん夫妻は毎日、朝と夕、仏壇の前に二人並んでお経を称えていた。問わず語りに校長さんが話した思い出は一人息子を熱病で亡くした話だった。息子は中学の三年生で、学校の成績が大変良く、上級学校への進学について親子で相談していた時、ふとした熱病であっけなくこの世を去った。
校長さんは若い頃から鉄砲打らが好きで、その頃の朝鮮には山どりやきじの類が多く、山や野を歩き回って鉄砲を打つのはまことに楽しかったそうだ。仕事の方も運が良く、都会地の学校の校長に抜擢されていた。
しかし、息子を失ってからはめっきり気が弱くなり、あるとき、鉄砲を構えた自分のほうを撮り向いた山どりの眼が、熱病にうかされて、じっと自分を見つめていた時の息子の眼とそっくりに見えて、それ以来鉄砲打ちをやめ、自分で志願してここの校長に転勤させて貰ったという話だった。
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