陸軍少校の話の要旨
「蒋介石総統の第一目標は共産軍の掃滅であった。ソビエトと通じた共産軍が残っていては、中国は遠からずソ聯に併呑される。共産軍と戦うためには日本軍の理不尽な要求や、地方政権のけしからん行動をしばらくは見逃しておかねばならなかった。
日本軍はそれをいいことにして益々貪欲な要求を地方政権につきつけ、蔣総統がそれに対して目をつぶっているとそれが総統から民心を離反させる原因となり、そのあげく西安事変が起きて総統は監禁され、国共合作の方針を容認せねばならぬ所まで追い詰められた。中国にとっても日本にとっても今が一番大切な時である。
蒋介石総統に後一年か二年の時を貸して貰えば、総統は共産軍掃滅の方針に復帰できると自分は確信している。共産軍を掃滅した後、満州に対する中国の主権を回復するという仕事が総統に残されるが、それは時間をかけて達成できる事業である。
この大切な時点で中国共産軍の謀略にまんまとはめられて日本陸軍が中国に対して戦争をしかけてきた。この時点で戦争をしかけられれば、蒋総統は国共合作の線に沿って日本に対する全面戦争を実行しなければならぬのだ。
この全面戦争で日本が最後の勝利を得ることはあり得ない。中国政府の軍隊が日本軍から壊滅的な打撃を受ける程度の事なら中共軍もその背後のソ聯も涼しい顔をして見送っているであろう。しかし、その後は敵意を持った中国民衆に囲まれた日本軍の前に中共軍とソ聯軍が立ちはだかることになる。
国共連合軍が日本軍を大陸から駆逐し得たとしても、中国の平和は回復されない。中国共産党の発言権が益々増大して、蒋総統は失脚し、中国はソ聯に編入される。
我々が今なすべきことは、中国と日本との全面的な衝突をどうにかして回避することだ。艦長も私の考えに賛成なら、衝突回避の線で万全の努力をして貰いたい」
というのが、その陸軍少校の話の要旨である。
その話を猪村に伝えたあと、その艦長は頭をかきながら言った。「いやもう、相手の熱心さには圧倒されたよ。彼の方は、中国の政府を動かすためのある程度の実力を持っているんだろうな。こちらの方は一介の海軍少佐でどうすれば日本政府の針路に影響を与 えることができるだろう。ただ、神に祈るだけだよなあ」
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