上海は身近な国際都市だった
当時、上海・長崎間にはスマートな高速定期船が就航していて、上海の共同租界(世界の列強が 共同で中国から借りていて中国の警察権の及ばない地域)に住む日本人宛に日本から来る手紙の宛先は「長崎県上海市……」と書かれていた位上海は身近な国際都市だった。この国際都市の雰囲気を十分に楽しんでこようと猪村は全く不用意に出掛けて行った。
猪村が上海に到着して二週間後の七月十日、北京の郊外で日本軍と中国軍との間に紛争が起った。これが支那事変となり、大東亜戦争に続くのであるが、当初日本政府は不拡大方針を声明していたから、大した発展はないだろうと猪村はたかをくくっていた。
上海の造船所は小さな造船所で、砲艦の改造は一度に一隻しか工事ができず、揚子江の各地にいる砲艦が一隻ずつ上海まで下りてきて改造を済ませて出航すると次の砲艦の改造が始まるという順序で、最後の一隻の工事中に北京付近で紛争が始まったのである。
猪村自身は大したことはないと考えてのんびりしていたのだが、上海の中園市民の反応には相当深刻なものがあった。造船所の従業員は三名のイギリス人を除けば全部中国人であり、彼は早速サボタージュを始めた。
猪村が朝早く造船所へ出てみると、従業員は既に出勤しているが、職場には入らず、造船所の屋外に五人から十人位が円く輪を作って、その中の一人が新聞を読み、色々激論している様子である。猪村は中国語がわからないので、彼等が何を言っているか分からない。彼等は猪村が近づくと一斉に口を閉じる。
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