「光を和らげ塵に同じうす」
その造兵会から数日後、猪村は水交社の食堂に「和光同塵、又八郎書」という額が掛かっているのに気がついた。「光を和らげ塵に同じうす」という文句は猪村の好きな文句であったので、この額を書いた又八郎という人は誰だろうと思った。一緒に食事をしていた進藤造兵中尉に聞いてみる
「那須又八郎海軍大将だ。横須賀鎮守府司令長官をしている頃に書かれたのだろう。鹿児島県以外の出身者ではじめて海軍大将になった人だよ。それよりも君、電池工場主任の那須造兵中佐のおとうさんだよ。もっとも、那須大将は五年前になくなられたがね」と丁寧に教えてくれた。「那須さんて、あの那須、清田の漫才コンビの那須さんかね」と猪村はたずねた。
「そうだよ、君、知らなかったの。那須さんは東大の電気工学科だから大学でも君の先輩だ」
「専門が電池だから応用化学科の出身かと思っていた」
「電気工学科を出て中技士に任官した後で応用化学科へ学士入学したんだ」
進藤造兵中尉のおやじも海軍大将だった関係もあってか、彼は那須さんの事をよく知っていた。この前の造兵会の漫才で清田さんが言った言葉の本当の意味が猪村には今はじめて理解できた。那須さんはまだ若いのに頭がつるつるにはげていた。清田さんは、
「君のおやじさんは光を和らげろといっているのに、近ごろ君の頭は益々冴えてくるようだね」と言ったのだ。出席の会員一同どっと笑ったが、猪村を始め新任の造兵中尉共には「君のおやじさん」と「はげ頭」との関係のわからぬ者が多かった。清田さんの漫才はこの額に書かれている「光を和らげ」を引いて言った言葉だったのかと猪村は今始めて分かったのだ。
猪村が造兵中尉に任官した時点で現役の造兵科士官の総数は百三十人程度、そのうち電気関係が二十八人位だったと思う。何分にも少人数の社会で、先輩は公私共によく後輩の面倒を見た。猪村達若い連中は先輩に甘えて、先輩に随分迷惑をかけて平気な顔をしていた。なあに、今にオレが先輩になった時はその時の後輩の面倒をみてやればよいのだ、それが先輩に対する恩返しだと考えて安心していたのだが、周囲環境の激変によって猪村が後輩の面倒をみることはなかった。
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