日本海海戦のように完全な勝利を得た海戦は古今東西の海戦史に存在しない
伝令は艦内の各分隊長にこの信号を伝達したであろう。海軍の分隊長は大尉か少佐の階級の士官 が勤める役目で、陸軍の中隊長と同じように部下の兵隊さんの世話をやくのがその仕事である。兵隊さんの中には水兵さんのほかに機関兵、衛生兵、主計兵がいるから、機関科、軍医科、主計科の士官もそれぞれ分隊長を勤める。中尉、少尉、少尉候補生が分隊長を補佐する分隊士となる。分隊 長や分隊士は「皇国の興廃……」の信号の意味はよく知っている。
そして、この信号をそのまま「コーコクノコーハイ…..」と発音して伝えたのでは兵隊さんにその意味が通じないこともよく知って いる。一応は「コーヨタノニーハイ……」と言っておいてその後でその意味を説明してやらねばならぬ。信号の意味が全艦に徹底するまでに相当な時間がかかる。この時間を通信費消時と言っていたが、通信費消時が大きいような信号は信号としては落第である。
トラファルガル海戦のときネルソンが出した信号は「英國は各自がその義務を果たすことを期待する」という誰でも分かる信号であった。ラテン語の信号を出してこれを士官が英語に銀訳して水 兵に開かせたわけではない「日本海軍には「おもかじ」「とりかじ」「よろそろ」「たばこぼん出せ」「総員手を洗え」など分かりやすい号令が使われていた。昔、昔は日本海軍の号令は英語であったろうと思う。その英語を日本語に直す時点では判り易い日本語に直したものであろう。いつの間に文口調の難しい文句が侵入したのであろうか。
日本海海戦のように完全な勝利を得た海戦は古今東西の海戦史に存在しない。そして、世界の歴史にこれほど重大な転機を作った海戦はなかったと落村は考える。この戦勝を機として、白人のアジア侵略は停止された。アジアの各民族が独立をかちえたのも、日本海海戦における日本の勝利がその源をなしている。日本民族は子子孫孫に至るまで日本海海戦の勝利を民族の誇りとすべきであると猪村は思っている。然し、日本海海戦の話につきもののように出てくる「敵艦見ゆとの警報に 接し……」という電報と、「皇国の興廃…」という信号とは、軍用通信学という立場から見ればまことにおかしな文章であると猪村は考えている。この頃から情緒的な感傷を戦争の中に持ち込む日本人の悪い癖が日本海軍においても出はじめたのではないだろうか。
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