「コーコクノコーハイ……」
旗艦三笠のマストに掲げられたZ旗一流の旗流信号、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という信号もまた国民の戦意を昂揚する上では有効な名文である。猪村はこういう情景を想像する。旗艦のZ旗を見てとった後続艦の信号兵はこの信号を中継するため自艦のマストにも高々とZ旗を掲揚して、「旗艦に信号、Z旗一流」と大声で報告する。艦橋に居る航海士はこの報告を聞いて、旗流信号書を調べ、朗々と読み上げる。
「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」
艦橋でこの信号を聞いた士官の誰もがぐっと胸にこみあげてくるものを感じる。
然し、これから後にやっかいな仕事がある。この信号はその軍艦に乗っている全員に伝達しなければならない。猪村が乗艦実習中に覗いた旗流信号書の中にもZ旗一流またはZ旗に他の旗を加えて作る「皇国の興廃……」に類似した信号があった。ただ、こういう種類の信号は演習中は使われなかったように思う。演習によって訓練してないから、この信号は兵隊さんたちには初耳の信号である。こういう信号が大東亜戦争中に使われたであろうか。
もし、使われたとしても日露戦争のときのようなやっかいなことにはならない。大東亜戦争の時の兵隊さんは皆、小学校で日本海海戦の話を教えられている。日本の兵隊さんは教育レベルが高いので、「皇国の興廃……」といえば、すぐその意味を理解して、士官同様胸にじんとくるものがあったと思う。然し、日露戦争当時の兵隊さんが日本海海戦の話を小学校で教えられていよう筈はない。「コーコクノコーハイ……」という文句は彼らにとって初耳である。
日露戦争当時の日本の水兵さんには小学校の優等生が多かったから文字に書いて「皇国の興廃……」として見せてくれれば、その意味を理解したであろうが、伝令 十二機密保持から「コーコクノコーハイ……」と言われた日にはチンプンカンプンであったろうと思う。第一、伝令にしてからがこんな難しい文句を正確に暗記出来たかどうか疑問である。
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