艦長1

艦長

艦長はじっと孤独に耐えて過ごさねばならぬ

聯合艦隊の軍艦は余り度々は航海しない。燃料の予算が少ないからである。応用訓練の時期に入っても、高知県と愛媛県との境の宿毛湾だとか、山口県の油谷湾とかに集まって、動かないでも出 来る訓練を実行している。宿毛湾とか油谷湾とかは大艦隊に対して十分な泊地があるという理由もあるだろうが、上陸してみてもまるっきり田舎でどうしようもなく、軍艦の上から陸上の町の灯を見て里心がつく心配が少なかったからであろう。

軍艦がそういう泊地にいるとき艦長はまことに暇そうに見えた。副長以下は毎日忙しく訓練に精出しているのだが、艦長は部下の訓練にはロだししない習慣らしい。しかも艦長はその暇な時間をじっと孤独に耐えて過ごさねばならぬ。



副長以下大尉以上の士官は士官室で、中少尉、候補生はガンルームで皆一緒に食事をする。士官室の士官の仲間、ガンルームの士官の仲間では、食事の時とか、休憩時間に暇な連中が集まった時とかには、色々面白い話が出る。きわどい猥談で仲間を笑わせる特技を持った者がいて無駄話の話題にはことを欠かない。然し、艦長だけは艦長公室で唯一人黙々と飯を食わねばならない。お給仕をする兵隊さんは姿勢を正して艦長が食事をするのをじっと見ているが、艦長は給仕の兵隊さんと世間話をする訳にもゆかぬ。

「一人で飯を食うのはつまらないから、俺も士官室で食うことにしよう」とか「軍医中尉と造兵中尉の今度の食事は艦長公室に用意させてあるから食いに来い」というようなことは言ってはいけないことになっている。話の華が咲いている士官室へ艦長が顔を出して「俺も仲間に入れてくれ」というような素振りを見せてはならないことになっている。そんなことをしたら、孤独に耐え得ない弱者として軽蔑される。軍艦旗掲揚のような時にはちゃんと後甲板に出てくるが、艦内をぶらぶら歩いている艦長の姿を見たことがない。後甲板を散歩でもしていないと運動不足になって困るだろうと思うのだが、そういう散歩も艦長として、してはいけない事だったのかも知れない。

「艦長は随分退屈しているだろうな」と猪村は思った。艦長従兵がガンルームまで使いにきて猪村が艦長室へ伺ったことがある。そのとき艦長は何やら禅宗に関係した本を読んでいたが、猪村が入ってゆくと、

「私用で呼びたててすまなかった。ちょっと教えて貰いたいことがあったので」と大変丁寧な言葉で高等学校(旧制)についての質問があった。艦長の息子は近眼になったので、海軍兵学校を受験するのをあきらめて、高等学校、大学というコースを経て海軍の技術官になりたいと言っているのだが、その場合地方の高等学校へ行っても技術官になる時不利でなかろうかという質問であった。猪村自身地方の高等学校の出身であるが何の不利もないというと艦長は安心したようだった。

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