「後進原速」
候補生のチャージなら、ボートの達着の要領を教えてやろうと手ぐすね引いて待っていたのだが、相手が中尉では余りがみがみ言う訳にもゆかぬし、それにあの航海士は操艇が仲々上手で副長の口だしする余地がないことを副長自身が良く知っていた。それにしてもケプガンがチャージを勤めるのは大事なお客でもあったのかな、自分は聞いてなかったがと副長は不思議に思った。然しチャージが何の号令もかけずぼんやりつったっているうちに、ボートがどんどん潮流に流されてタラップより随分後の方で軍艦の舷側に衝突しそうになると、副長はわれを忘れて、いつもの癖が出た。
「ああ、おもかじ一ぱい」
チャージは副長の声を復唱するように、
「おもーかじ」
「流されとるじゃないか。前進をかけろ」
チャージは副長の顔を見つめたまま、
「前進原速」と復唱し、信号ワイヤを引いてエンジン室の鐘をチンチンとならして合図をした後、また副長の顔を見上げた。
「行き過ぎる、行き過ぎる。停止だ、早く停止しろ」
チャージがボートの動きを少しも見ていない様子なので副長はいささか慌てた。然し、副長は自分の指示通りにやればボートはうまくタラップにつくものだと思っている。チャージがやらんのな ら俺が直接号令をかけて教えてやってもいい。そう思って指示しており、チャージはまた副長の言う通りに号令をかけているのだが、ボートは行きつ戻りつ仲々タラップには近づかない。 「後進をかけて動きを止めろ」
「後進原速」
「早く停止しろ」
「停止」
「そこでとりかじだ」
「とーりかじ」 副長は夢中になっており、チャージは泰然自若として副長の顔を見上げているだけで何一つ自発的な動作はしない。副長はいささか頭に来て思わず怒鳴りつけた。
「こら、俺の顔ばかり見ていないで、しっかりボートの動きを見て、何でもいいから早くボートを着けろ」
チャージはにやりとした。そして大声で、
「復唱、何でもいいから早く着けます」
と怒鳴り返しておいて、その後は二回号令をかけただけでボートは吸いよせられるようにぴたっ とタラップに着いた。
副長はやっとわれに返って「そうだ、このボートには大事なお客が乗っている筈だ。お客の前で醜態を見せたものだが、ケプガンの奴、何だってまたあんなことをやりやがったのだろう」と冷汗をかきながらも腹を立てていた。然しタラップを最初に昇ってきたのが本艦の軍医中尉だったので副長は一安心した。ボートに乗るときは位の下のものが先に乗り、ボートから降りるときは位の上 のものが先に降りることになっているので、一番最初に軍医中尉が降りたことは偉いお客はいない証拠になる。では何故ヶプガンがチャージに出たのだろうと副長は考えた。その日の夕食のときその軍医中尉がこの話を披露した。ガンルームの連中は笑いこけたが、当のケプガンはその話に加わらず、ただ黙々と飯を食っていた。