大人(たいじん)1

大人

沢宮さんは大人(たいじん)というあだ名でよばれていた

機械工作法の実習が終わると、十三名の実習中尉共は分散して各自の専門分野での実習に入る。猪村は造兵科士官としての専門が電気技術で、その電気技術のなかでも無線技術の専門に予定されていたので、最初の二ヵ月間が呉海軍工廠電気部での実習、それに続く二ヵ月間が東京の海軍技術研究所電気研究部での実習の予定になっていた。

電気部での指導官は沢宮造兵中佐で、沢宮中佐は多忙な仕事の片手間に猪村の指導を担当しているのだが、それにしても、先生一、生徒一という贅沢な教育態勢である。沢宮さんは大人(たいじん)というあだ名でよばれていた。そして沢宮さんはこう自慢するのである。

「このあだ名は、大人の本場の中華民国から貰ったあだ名やからなあ、そんじょそこらの大人とは ちがうんやぜ」

沢宮さんは丹後の宮津の出身で京都弁を使う。猪村達が砲術学校へ入る前に伺候した横須賀鎮守府の司令長官は昭和七年の第一次上海事変の停戦祝賀の行事の時、テロの投げた爆弾で片眼を無くしていたが、この人は紀州の出身で大阪弁を使った。大阪弁とか京都弁とかは軍隊にはあまりなじ まないと猪村は思っていたのだが、大きな身体の司令長官から柔らかな大阪弁で要領のいい訓辞を聞かされると、大阪弁もまたいいもんだと思うようになった。然し、大阪弁を使う軍人の数は少ない。

沢宮さん自身の話はどこまで信用していいか分からないのだが、その話によると、沢宮さんが造兵大尉で佐世保海軍工廠の無線担当部員であった頃、中華民国の各地にある日本の領事館に無線電信機を装備する工事を担当した。領事館に無線電信機を勝手に装備するのは、国際法違反なのだろうが、当時の中華民国ではあまりやかましく言わなかった。それにしても大っぴらに出来る仕事ではなかったらしい。

漢口の領事館は市街地にあり、その中庭は隣家の二階から良く見える位置にあった。外部からの電気が停電したような時の応急電源として小型のディーゼル発電機を装備するので、他の領事館では中庭に小屋を建ててその中に発電機を入れたのだが、漢口の領事館では中庭に小屋を建てると、近所の住民が怪しむだろうと考えて、中庭には築山を作るように見せかけて、その下に地下壕を掘 り、その地下壕の中にディーゼル発電機を装備した。

地下壕の発電機を運転して検査合格ということとなり、我が方では一向に気がつかなかったのだが、たちまち近所の住民の間で大騒ぎが起こった。ディーゼルの振動が土の中を伝わって隣近所の 家の床下から遠雷のとどろくような大音を発したのだ。沢宮さんの言葉を借りて言えば、

「音いうもんはなあ、空気の中を伝わるとばかり思っていたんやが、土の中のほうが遙かに能率よく伝わることがはじめて分かったわ」という次第である。びっくりした住民の訴えによって民国側のお役人が領事館にやって来て、一体何をしたのかと質問した。その時の沢宮さんの応対がぬらりくらりと少しも要領を得ず、あの音は領事館から出た音とは思わぬが、然し今後は絶対にああいう音を出さないようにしてみせますからどうぞ御安心をと、前後矛盾したことを平気で話した。そして沢宮さんは築山と地下壕を壊して、中庭に小屋を建ててその中にディーゼル発電機を装備した。

その時の民国側のお役人が、後日、日本の領事に、「あの人は大人ですわ。あの人と話しているとこちらも拍子抜けがして、まあいいやという気になるから不思議ですなあ」

と述懐し、その話が、その領事から佐世保海軍工廠へ伝えられて、大人のあだ名が沢宮さんに奉られたのだそうだ。

「大尉と言えば、唐の時代でも宋の時代でも国防大臣のことやろが。造兵大尉というのもそれに近い階級だと思ったんやないか。相手はえらい丁寧だったよ」

と沢宮さんは言うのである。沢宮さんはその翌年造兵少佐に進級したが、それ以後中国への出張は避けていたそうである。大尉ならともかく、少佐のような下級軍人では中国人に軽蔑されると思ったからだという。

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