訓練は生易しかったが、先生はまことに立派だった
大砲の実弾身撃は好きになったが、飛行機は苦手だった。航空の術科学校に相当する所はその頃は横須賀海軍航空隊の中にあった。ここでは座学がなくて、いきなり飛行機に乗せられた。二座機の偵察員席に乗せられ、操縦員席の教官が色々と話しながら簡単な攻撃動作を短時間やって見せるだけの、いわばまあ遊覧飛行だが、急降下の時など、横隔膜がぐっと圧迫され、頭のてっぺんに血 がのぼって、情けないことに、ただ乗っているだけで生きた心地がしないというていたらくである。「気ヲ付ヶ」「前へ進メ」などの教練は海軍では陸戦術という術科に属していて、陸戦術は砲術学校で教育されており、安達少佐は陸戦術の教官であった。当然のこととて技術科士官講習員も陸戦術の訓練を受けたが、これはまあ幼稚園の子供のお遊戯みたいなもので、本式の訓練からは程遠いものであった。本式の訓練をやられたら、猪村ばかりでなく多くの仲間がすぐ顎を出してへたばったであろう。
訓練は生易しかったが、先生はまことに立派だった。坂脇一等兵曹(当時の階級では下士官の最上級が一等兵曹だった)が猪村達の先生になった。坂脇一等兵曹の本務は、普通科練習生、高等科練習生として砲術学校に入校してくる下士官兵に対する陸戦教員であったが、その多忙な本務のほかに技術科士官の陸戦教練の教員を担当していた。じっと立っているだけで、どちらから見てもま るで軍人精神のお手本のように見える人だった。猪村が海軍へ入って最初に感心したことは、「海軍の下士官は立派だなあ」という事だったが、これは坂脇一等兵曹から受けた第一印象によるものであろう。何分にも生徒のほうが先生よりも兵隊の位では上級にあるので、生徒がへまをやった場合にも怒鳴りつける訳にもゆかず、自分が何回か繰り返してお手本を示して見せるのだが、そのやりかたがいかにも親切でしかもューモアを含んでおり、たちまち技術科士官どもの尊敬のまとになった。
安達少佐、坂脇一等兵曹始め陸戦術関係の人々で猪村の知っている人々は、こんどの戦争で全員 戦死した。