天測航法1

天測航法

郷里で結婚した

猪村は昭和十四年の春から昭和十六年の秋頃まで南洋群島と横須賀との間を度々往復した。昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発のニュースを聞いた時点では南洋群島での猪村の仕事は一応終わっていたが、その翌日から高熱を出して五日間位横須賀工廠へ出勤できなかったことを良く憶えている。

この高熱は南洋群島の流行病である天狗熱によるもので、このときの天狗熱とのお別れが南洋群島との最後のお別れになった。

その間猪村の内地の仕事も結構忙しく、南洋ボケの猪村をかばって、猪村の部下達がよく働いた。この頃、文官から武官への転官が実行されていた。

文官のままでいると陸軍に徴集されるので、一年志願で陸軍少尉に任官している者を除いて文官系統の若い技術者は総て海軍の技術科士官に任官した。

大学と高等工業学校(工業専門学校という名称になっていたかも知れぬが)出身の技師、技手、工手は殆ど全員技術科士官になった。技手は判任官で、工手は判任官よりも下の階級で対外的 折衝をさせる上で都合の悪いことがあったが、技術科士官はすべて高等官であり、その点仕事がやりやすくなった。

その頃には造兵生徒出身者は造兵少尉候補生に任官されるようになり、二年現役技術科士官も配員され、猪村の部下の高等官の数も随分多くなった。



猪村は昭和十五年三月に郷里で結婚した。結婚式の一週間前までパラオに滞在していたので、結婚式の当日は南洋ボケが直っていなかった。長男が誕生したのは昭和十六年一月であったが、この時も猪村はパラオに居た。

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