蒙古馬に似た小形の馬が放牧されていた
済州島には中央にハンナ山という標高千九百五十メートルの休火山が聳え、ゆるやかな傾斜をした裾野が四周の海岸に達している。
山裾の原野には、猪村が満州で見たことのある蒙古馬に似た小形の馬が放牧されていた。済州島でこの馬を放牧している人々は蒙古人の子孫であると言われていた。
海岸地方で農耕と漁業に従事している人々とは服装が違っているように見えた。たとえば、パオという名の蒙古帽をかぶっていた。
その昔、元軍が日本に攻め込んで来たとき、高麗は元の属国であり、日本侵略の手先に使われ済州島は元軍の前進基地になった。博多の沖で神風に吹散らされて惨敗した蒙古兵の生き残りがこの地に住ついたのであろうか。蒙古人の子孫であるといっても、蒙古人の女性はここへは来なかった筈だから、この地の人と蒙古人との混血であろうが、七百年に近い間、蒙古の風俗が此処に残ったのは何故だろう。
校長先生は話好きだった。そして、猪村が明日の飛行機で佐世保へ帰るという晚,その蒙古馬の写真を見せて説明してくれた。
校長さんは殺生はやめたが、動物の観察は続けていきたかった。あのときの山どりの目のように動物の表情を通して死んだ息子が自分に何かを語りかけてくるかも知れないと思ったからであると言う。 その当時では一番高級なドイツ製のカメラであるコンタックスを買って、動物の写真をとるために山野を歩くことにした。
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