海軍艦政本部部員と東京帝国大学教授とを兼任している海軍造兵大佐が猪村たち13人の引率者だった。
海軍省や軍令部の各部局の挨拶回りをすませ、任官御礼の記帳のため、生まれてはじめて宮中へも参内し、官報の辞令では横須賀鎮守府付仰せつけられるとなっているので、東京駅の食堂で昼飯をすませた後、横須賀行きのグリーン車に乗った。当時は普通車を三等車、グリーン車を二等車と言っていたが、貧乏人の猪村は、二等車に乗るのはこれが初めてだった。
横須賀鎮守府の司令長官に伺候して「海軍砲術学校長の命を受け服務すべし」という辞令をもらって砲術学校という学校で、技術科士官講習員として教育を受けるのである。
その年は、桜の開花が遅れた年だったようで、横須賀線の電車の窓から見た戸塚辺の川の堤の桜も砲術学校の庭の桜も満開だった。