造船科の士官が一番まとまりが良かった
技術科士官のなかでも造船科の士官が一番まとまりが良かった。兵科士官や機関科士官で海軍大学校選科学生として、国内または国外の大学で造船工学を勉強して造船技術部門に送り込まれてきた人は一人もいなかった。海軍造船生徒出身の技師を始め色々な経歴の造船技師はいた筈であるが、その数が少なかったせいか目だたなかった。
各海軍工廠の造船部、海軍技術研究所の造船研究部、海軍艦政本部第四部(造船関係の部)の高等官は殆ど全部造船科士官だったような感じがした。その頃、帝国大学で造船工学科のあった大学は東京と九州だけで、その頃の海軍の造船科士官は全部東京か九州のどちらかの大学の出身だった。造船科士官の懇親会に造船会という会があって、昔もよく集まっていたし、戦後もずっと続いているらしいが、海軍の存在していた間は、例えば横 須賀造船会といえば、横須賀に勤務する造船科士官の懇親会であるのだが、同時に横須賀海軍工廠 造船部の高等官の懇親会の役割をも果たしていたようだ。
造船会と同じように造兵科士官の懇親会としての造兵会があったが、これは造船会のようにはゆかなかった。猪村が横須賀海軍工廠造兵部に勤務していた昭和十四年の頃、同じ造兵部の部員の機関少佐に、
「今日は造兵会がありますので定時間で失礼します」
と口をすべらせた所、相手の機関少佐はいたずらそうな眼をくりくりさせて、
「造兵会というから、造兵部の高等官の会かと思っていたら、造兵科士官の会なんだそうですね。よくお集まりのようですが、一緒に仕事をしているわれわれも時には招待してくださいよ」 と嫌味を言われた。
不意をつかれた猪村はしどろもどろの返事をしたことを憶えている。こういう嫌味を言われたのは後にも先にもこの時だけだが、この機関少佐の言ったことが至極尤もな事である。何分にも、横須賀海軍工廠の造兵部には兵科士官、機関科士官、主計科士官、造兵科士官、海軍技師という色々な種類の高等官がおり、追浜の海軍航空廠にも同じような色々の種類の高等官 がいるのに、造兵部と航空廠の造兵科士官だけが集まって懇親会をするのだから、少しは他の系統の高等官に対して配慮すべきであったろうに、そういう配慮はなされてなかったようだ。
造兵科士官以外の者の目には傍若無人の態度に見えたであろう。
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