オーソリティ3

オーソリティー

お役所へ伺いを立てていたのでは到底戦争の間に合わない

猪村は図面の中から一つのコンデンサーを下士官に示しそのコンデンサーをショートさせる。下士官は受信機をシャシーから取り外し、猪村が図面で示したコンデンサーの現物を捜し出してショートした。

「今度はバランス調整だけオレがやるからな、前のとおり方位測定をやってみてくれ」

猪村がショートさせたのは、ループアンテナの垂直空中線効果を打ち消すために補助アンテナから加える逆電圧を制限するためのコンデンサーである。この制限がないと加える逆電圧が不必要に大きくなりすぎて、調整が困難になる。しかし、この戦艦の場合のようにループアンテナの垂直空中線効果が大きな場合はこのコンデンサーがあると加える逆電圧を一杯にしても垂直空中線効果を打ち消すにはなお不足になる。コンデンサーをショートするとバランス調整が困難になるかと思ったが、訳なく調整できた。調整が出来ると下士官が大きな声で、

「よくなりました。零点が随分シャープになりました」という。下士官に言われるまでもなく、その状況は猪村のレシーバーで良くわかる。その状態でAB面誤差の測定をやらせ、後で理論を説明してやって対策は完了した。

この話が、猪村の転勤先の軍艦の通信科の下士官連中にリレー式に伝えられて彼らは猪村を無線技術のオーソリティだと勘違いする結果になった。この話がなくても猪村が無線技術のオーソリティと勘違いされる原因は他にもあった。聯合艦隊の各艦が艦隊編成を解かれて母港に停泊しているときは、壊れた兵器の修理や、艦政本部から命令された改造工事などをやっていて、呉軍港における通信関係の兵器に関する限り、それらの工事の最高責任者は猪村部員であるので、猪村がたとえ半人前の中尉であっても、掌通信長や先任下士官達が猪村をオーソリティだと考えても不思議ではない。



軍艦の通信関係の乗員には、親方に海軍少佐か海軍大尉の通信長がいる。その下に海軍中尉か海軍少尉の通信士がいて、大きな軍艦だと、暗号専門の通信士もいる。通信関係の兵器の整備の責任を持った掌通信長という特務士官か準士官がいる。各電信室に先任下士官として一等兵曹か二等兵曹がいる。先任下士官達には猪村は評判が良かった。実際の工事は猪村の部下の技手や工手が担当 しているが、先任下士官達はよく小さな改造工事を工廠へたのんできた。いくら小さくても改造は艦政本部の許可がなければやってはいけないことになっている。そこで、軍艦の側から改造要求がでてくると、担当の技手や工手は必ず猪村部員に伺いを立ててきた。

猪村は考えた。こんなことを一々艦政本部などというお役所へ伺いを立てていたのでは到底戦争の間に合わない。間違った理由からの改造でないかぎりどしどしやってやろうや、ただ改造結果に従って図面を修正しておかぬと後で分からなくなるから、船で持っている図面と工廠の図面とはちゃんと直して、何年何月何日の修理の結果訂正と書き込んで艦政本部へは知らん顔をしておこうやという指示をすることにしていたので、先任下士官達は猪村部員に頼めば何でもやってくれると感じたらしい。時には間違った考えから改造を頼んで来ることもあったが、そういう時猪村は軍艦へでかけて行って、発案した下士官に、そう改造するとこういう結果になって困るだろうということをよく説明した。下士官の意見は通信長の名前で工廠側へでているのだが、発案者の下士官が納得すれば、その要求を猪村が握り潰して知らん顔をしていても、通信長から文句がでたことはない。

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