オーソリティ1

オーソリティー

海軍では階段は駆け足で

昭和十一年の六月、猪村の第二回の乗艦実習が始まる。聯合艦隊の各艦は横須賀、呉、佐世保の各軍港のどれかを母港にしている。呉に勤務していた猪村は最初は呉に停泊している戦艦に乗せられる。転勤旅費を倹約しようという趣旨である。

その戦艦が呉軍港を出て聯合艦隊の泊地である宿毛湾へ向かう途中、猪村はこれという仕事もなくて前部電信室で受信機のレシーバーを被って雑音の状態を調べていた。この軍艦の無線関係の修理工事は呉工廠の部員であった猪村の担当事項であった。軍艦側からの希望によって、受信アンテナの引き入れ線の配置を変更したが、その結果どうも雑音が増加したような気がして心配だった。

その電信室へ入ってきた二等兵曹が猪村を見付けて、

「猪村部員は本艦へご出張でありますか」と声をかけてきた。猪村はその下士官の顔に見憶えはない。しかし、先方はこちらを良く知っているらしい。

「いや、もう猪村部員ではなくなってなあ。聯合艦隊司令部付の実習中尉に逆もどりして、ただ今は本艦に乗っている」

「それでは、いつかお暇な時に本艦の方位測定機を見て頂けますでしょうか。エー、ビー面誤差が多くて野島工手に見て貰っていたのですが、原因が分からぬまま出港しました」という。

野島工手は猪村部員の下で本艦の無線の修理工事を担当していた高等工業学校出の若い工手である。野島から猪村へは一向報告がなかったが、野島のやりかけた仕事なら後は猪村が引き受けねばなるまい。



「今は、暇な身体だからな。いつでもみてやるよ」 「ただ今からでもお差し支えありませんか」という次第で猪村はその下士官に案内されて方位測定室へ昇って行った。方位測定室はその戦艦の楼型マストの頂上近くにある。前部電信室から方位測定室までは嫌という程の数の階段を昇って行かねばならぬ。海軍では階段は駆け足で昇降する定めになっており、下士官は馴れたもので、いとも楽々と昇っていく。小柄で体重の軽い猪村は、負けてなるかと頑張って昇ったが、方位測定室に入ったときは息切れしていた。

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