艦政本部からの指示図面と違っていますね
潜水艦の工事が進行して公試運転が始まると猪村も呉から神戸へ出張して公試運転に乗艦した。無線装置の試験が無事終わって安心していると、呉から猪村と一緒に公試運転に来て、専ら水中聴音機の試験をしていた上南技手が心配そうな顔をして、音の方位がさっぱり分かりませんと猪村に報告した。猪村は簡単な接続間違いだろうと考えて何回か配線チェックをやり直させたがどうもそうではない。音は良く聞こえるのだが最大点は見つからない。講習会のときの状態とは全く違う。他の部門の試験が皆順調に終わっているのに水中聴音機だけもたもたしている訳にもいかぬ。
猪村はやむをえず東京に電話して久多造兵少佐に来て貰うことにした。久多造兵少佐は東京大学の物理学科出身だったが、神戸へ来ると潜水艦へ行く前に造船所の応接室で関係者を集めて打合せ会を開いた。そして造船所の設計部にある捕音器の装備図面を持ってこさせて、机の上にその図面を広げるなり、
「ああ、これは艦政本部からの指示図面と違っていますね。なぜ変えたの」
と猪村に質問した。その図面は呉海軍工廠の電気部で作って川崎造船所へ指示し、川崎造船所はその図面に従って捕音器の装備工事をした図面で、そこには猪村の検印もちゃんと押してあるが、猪村はその図面には余り心覚えがなかった。まして艦政本部の指示図と変わっているなど猪村には初耳である。艦政本部の指示図も猪村は見た筈であるが、見たかどうかさえも忘れてしまっている。久多少佐の質問に対し猪村が答えに窮していると、上南技手が、
「これは、私が独断で変更しましたもので、艦政本部の指示図どうりの位置では余りにも艦の前方に偏りすぎて、捕音器装備の水平投影の楕円の短軸が短くなりまして艦の首尾線方向から来る音波に対しては測定精度が低くなると考えたものですから」
と答えた。久多少佐はいつもの優しい声で、 「原因はそれだね。音の速度は水の中と鋼鉄の中とではほぼ同じで、水と鋼鉄の境では殆ど反射しないが、鋼鉄と空気との境では大きな反射が起こるんだ。艦政本部の指示図は潜水艦のずっと前の部分で船体の内部に空気の存在しない部分に装備することになっているが、君はこの位置を後ろヘ下げたから、水中から来た音波が鋼鉄に入り、鋼鉄から空気層へ出る境で反射して、音波の到来方向が目茶目茶に乱れるのだ。このことは講習会でもよく説明しておいた筈だが、説明が不十分だったかな」