絶対音感の訓練
近ごろは絶対音感の訓練を受けた人も多いだろうが、昭和十年頃までは絶対音感という言葉の意味さえ一般には余りよく知られていなかった。ハ調のラの音を聞かせておいて、そのすぐ後でハ調のソの音を聞かせると大抵の人ならそれがソの音だと分かるが、いきなりハ調のソの音を聞かせただけでは、それがハ調のソであるかラであるかを言い当てるのは難しい。これを言い当てることができる訓練は音楽家にも必要だろうが、水中聴音員もこの訓練を受けていた。
新型の水中聴音機は十六個の捕音器を潜水艦の船腹に装備する。そして時間遅延は電気的な遅延回路によって与える。互いに絶縁された多数の横棒の間に一単位の遅延回路が接続されて遅延板が構成され、十六個の捕音器の水平面への投影を縮尺した位置に接続ピンが植えられた整相板がこの遅延板の上でピンを横棒に接触させながら回転できるようになっている。
十六個の捕音器からの信号はそれぞれ対応するピンに接続されている。十六個の捕音器群に対する到来音波の方向によって、各捕音器に捕えられる音波の時間遅れが異なる。遅延板と整相板との角度が適当な角度になると遅延量の大きな信号には電気回路で小さな遅延が与えられ、遅延量の小さな信号には電気回路で大きな遅延が与えられ、その結果どの捕音器からの信号も同じ遅延時間で加え合わされることになり、その時音の感度が最大になる。
水中聴音員は整相板を回転しながら音の最大になる点を見出せばよい。この方法なら猪村でも相当正確に音の到来方向を決定することが出来る。猪村は講習会で実際に使って見て自信を持った。そして遅延板と整相板との組合わせのような信号接続方法を他の装置にも利用出来ないだろうかなどと考えていた。神戸の川崎造船で建造中の潜水艦にこの新型の水中聴音機を装備することになった。
当時は音響関係の専門技術者は海軍工廠には配員されておらず、この水中聴音機の工事も猪村の担当だった。然し新造の潜水艦には無線関係にも大きな仕事があり、その送信機は猪村がついこの間まで実習していた技術研究所電気研究部第二研究科で設計したものであるし、短波マストと言って潜望鏡のように潜航中に海面に出して短波の送信を行うアンテナも第二研究科の設計であり、この防水工事なども相当重要な作業だったので、猪村はこの潜水艦に関する限り、水中聴音機には余り注意していなかった。