激しい競争を経て採用された見習工には優秀な人材が沢山いた
海軍兵学校、海軍機関学校を卒業して若い間は、兵科将校、機関科将校として勤務し、大尉の階級で海軍大学校選科学生として国内または外国の大学に留学を命ぜられ、卒業後は兵科将校、機関科将校としての身分はそのまま、専ら技術部門の仕事に従事するコースがあった。呉海軍工廠での猪村の前任者の橋口少佐のようなコースである。このコースの人には兵学校や機関学校の成績の良い人が多かった。猪村が海軍造兵大尉に進級したと同年に大尉に進級した兵学校と機関学校のクラスの首席卒業者は二人とも技術部門に入り、海軍大尉の方は東北大学の電気工学科を卒業し、海軍機関大尉の方は米国のMIT(マサチュセット工科大学)の電気工学科を卒業して、二人とも猪村と似たような仕事をすることになった。
海軍の技術者養成のもう一つのコースとして海軍技手養成所があった。海軍工廠の見習工に採用されると、給料を貰いながら甲種工業学校(旧制)卒業の資格が貰える教育を受けることが出来、将来の地位も保証されるので、子弟を上級学校に進学させる経済的余裕のない家庭が多かった時代にあっては、海軍工廠の見習工の志願者は大変多かった。そして激しい競争を経て採用された見習工には優秀な人材が沢山いた。見習工の教程を終わって甲種工業学校卒業の資格を得ると、中学校(旧制)や甲種工業学校を卒業して海軍工廠の工員になった連中と一緒に海軍技手養成所の入学試験を受けることができる。この試験もまた競争が激しい。海軍技手養成所では旧制の高等工業学校と同じ教育を受けて、卒業すると工手、技手、技師の順序で進級する。昭和十年の時点で、海軍技手養成所出身の高等官二等(海軍少将に相当する階級)の技師がいた。ただしこの人は電気関係ではない。
浮き草稼業の高等官等を当てにしないで、海軍工廠の内部をがっちり固めて日常の作業を過ちなく処理しているのは見習工から海軍技手養成所を経て工手、技手の階級で仕事をしている地元出身者の集団だった。一年後で猪村が聯合艦隊へ転勤する予定であることは猪村の部下達もよく知っていた。こんな状況下では、日常の作業に関する限り猪村はただ目くら判を押していれば良いのだと思っていた。そして早速失敗した。
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