海軍工廠5

海軍工廠

大学出たての若い技術者などの出る幕はない

昭和十年当時の海軍の技術部門では、実習中の猪村中尉を引っ張り出さねばならぬ程高等官の実員が少なかったし、一方では重要な仕事を定員外の高等官に担当させねばならぬほど高等官の定員はなお少なかった。海軍省から呉鎮守府付の辞令が出ると、鎮守府の司令長官からは「呉海軍工廠長の命を承け服務すべし」という辞令が出、工廠長からは「砲こう部長の命を承け服務すべし」という辞令が出て、砲こう部で仕事をするので、普通の人は名刺の肩書きには、呉海軍工廠砲こう部と書くのだが、寺中造兵大尉はいつまでも定員外配置でおかれるのに業をにやして、わざわざ鎮守府付という肩書きの名刺を作って置いたのであろう。



当時の海軍では無線機械の設計は技術研究所で、その製造は民間の会社で行っていたので、海軍工廠での無線の仕事は無線機械を軍艦に装備し、軍艦で壊れた無線機械の修理をするだけで、装備工事の方を外業、修理工事の方を内業と称していた。修理工事には季節的な繁閑があるので、閑なときの仕事として無線機械の製造をも行っていたが この製造工事は余り重要な作業ではなかった。

こんな仕事をしている海軍工廠の無線部門には大学出たての若い技術者などの出る幕はないと猪村は考えていた。それに、戦前のどこのお役所でもそうであるように、高等官というのは浮き草稼業で、二年か三年で転勤する。やっと仕事が判り始めるともう転勤だから、部下はそんな上役を当てにしていない。万事自分達で実務を処理して高等官などはお飾りに置いておくだけのものである。だから猪村のような未熟な者が配置されても大過なく勤めを果たすことができる。 猪村の前任者である橋口少佐にしてからが、階級は少佐ではあるが、海軍兵学校を出て少尉に任官した後、海軍通信学校高等科学生を経て海軍大学校選科学生という資格で東北大学の電気工学科で三年間電気工学を専攻し、卒業したのは昭和七年だから技術者としての経歴は猪村と余り違わない。

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