昭和九年当時の海軍技術研究所
第一回の乗艦実習を終了した猪村は本人の希望通り、海軍技術研究所に配属され、電気研究部第二研究科の所属になった。この研究科は艦船用無線送信機の設計を研究するグループで、この研究科の主任の沼谷技師はその当時高等官四等(中佐相当)で、若い技手の時代に二年ばかり造兵監督官助手としてフランスに駐在した経歴を除けば、後は全部艦船用無線送信機の研究ばかりやってきたというこの分野のベテランである。
昭和九年当時の海軍技術研究所には造船研究部、理学研究部、電気研究部の三部があったが、電気研究部の仕事だけは他の研究部とは少し異なっていた。昔、東京造兵廠という海軍工廠があって、これが海軍軍縮によって廃止され、その仕事の一部が海軍技術研究所に引き継がれたが、この引き継がれた仕事の中に無線電信機の設計製造という仕事があり、これが電気研究部の仕事になっていたから、電気研究部は研究機関というより設計機関としての色彩が濃かった。
第二研究科には沼谷技師の他にもう一人高等官七等(中尉相当)の近江技師がいたが、この人は 肺結核で病気引き入れ中でその他の人は皆技手以下の階級である。つまり一番仕事を知らない猪村が二科の中での階級先任順から言えば沼谷技師に次いで科の次席になった次第である。
主任室という名札の掛かった部屋は科の会議室を兼ねていて、沼谷技師の机と会議卓とが置かれていたが、猪村の机はその主任室の中で沼谷技師の机の隣に置かれた。
海軍技術研究所の従業員の中には、階級は工員であっても、学歴は大学卒以下種々雑多な学歴の者があり、またその学歴とは全然関係無く高度の学力を持っている人が多かった。小学校しか出ていないが電気工学の学力にかけては大学出の猪村がかなわぬ程度の学力を持っている人材が沢山いた。