艦長5

艦長

「海軍は良かったなあ」

第一回の乗艦実習は昭和九年の秋の大演習観艦式をもって終了しその後一年半のOJT実習に入 るのであるが、その頃になって猪村は海軍が大好きになっている自分に気がついた。大日本帝国海 軍が滅亡して四十有余年を経た後でも、昔の海軍の友達に会うとお互いに、

「海軍は良かったなあ」

と言い合って過ぎた昔を懐かしんでいる。然し、これは海軍のエリートとして過ごした男達だけの間の挨拶で、兵で海兵団へ入隊させられ毎日ビンタを取られていた兵隊さんにこんな挨拶をしたら殴り倒されるだろうと反省する。

海軍が大好きになったのと同時に、海軍の社会は日本の一般の社会とは少し変わっていることに気がついた。簡単に言えば日本の海軍は英国海軍のしきたりを頑固に守っていたことである。敗戦後、小説家の司馬遼太郎が日本海軍は「日本固有の文化とは異質な文化を持っていた」と言ったことがあるが、この異質の文化が古き良き日本海軍には残っていたのであろう。義理人情のしがらみにまつわりついたようなウェットな感じのする日本の文化に較べると、日本海軍の持っていた異質の文化はドライな文化であったように思う。ウェットとドライと、どちらがよいかという問題ではない。猪村は古き良き日本海軍に残っていたドライな感じのする文化が好きになった。



明治維新の後、富国強兵の目的で西欧文化を取り入れた日本の各分野では「和魂洋才」という思想が確固として根を下ろしていたのであろうと思う。物質文化に関しては西欧先進諸国に学ばねばならぬが、精神文化は日本古来の精神文化の伝統を守って行かねばならぬと考えたであろう。

こうした日本文化の社会の中にあって、独り日本海軍の創設者達は「欧米の精神文化をも学び取らねば強い日本海軍は作れない」という認識のもとに、英国海軍の習慣を模倣し、日本人式の発想を頑固に拒み続けて来たのではなかろうかと猪村は勝手な想像をする。そして創設者達のこういう認識は正しかったと猪村は考える。ただ、日本人の社会の中で異質の文化を維持してゆくことはまことに困難な事業であった。日露戦争における日本海軍の大勝利から「日本人流の考え方で結構勝てるじゃないか」と言う考えが起きても何の不思議もない。昭和初期の海軍軍縮と言う国際輿論に対しては、西欧流の合理的な発想ではどうにも反対の理由が見つからない。然し、軍縮に賛成したのでは自分たち仲間の失業につながる。どんなに不合理でも、ここはひとつ軍縮反対の主張をしなければならぬ。その場合は西欧流の発想を棄てて、日本人式の発想でゆけばどんな勇ましいことでも言える。そして勇ましいことを大きな声で言う方が宣伝効果があり、ことに仲間内の支持が得られることは確実である。

このようにして、日本海軍の中の軍縮賛成派は軍縮反対派に破れた。そして、日本海軍が持っていた異質の文化は段々と崩壊した。この崩壊に伴って日本海軍は全く弱い海軍になったと猪村は考えている。弱い海軍と言っても、個々の戦闘で弱かったわけでは決してない。軍令部とか、聯合艦隊司令部とかの作戦がへまばかりやっていた、そしてそれがいかにも日本人式発想によるへまである。作戦には全くの素人の猪村がこんな話をしなくても、誰でもが良く知っていることだと思うのだが、戦後のマスコミでこの問題が取り上げられた話を聞かない。誰かが記録にとどめて置かぬと歴史の判断を謬る虞があると猪村は考えるのである。

そして、日本海軍に就いては随分と無知な猪村は、また独断的にこうも考えるのである。すなわ ち、古き良き日の日本海軍は昭和十五年頃には殆ど無くなっていた。従ってそれ以後日本海軍に入った連中は、古き良き日の日本海軍の本当の雰囲気を体験したことは無いだろう。そういう連中の観察ばかりが記録に残ると後人をして判断を誤らせる原因になりはしないかと心配する。そこで、恥をしのんで拙い文章を綴り敢えて問題を提供する次第である。

然し、猪村は第二次世界大戦において日本海軍の作戦に参画した訳ではない。へまな作戦だと言っても、その作戦がどんな作戦だったかも知らない。唯、猪村の関係した仕事から見て、あれはヘまな作戦だったなあと思うだけの話である。

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