艦長3

艦長

戦闘に際して自分だけの判断で直ちに事を決定する習性

日本の株式会社の社長は下からの稟議を決裁しておれば自分の任務が果たせるので、大抵の無能な男なら株式会社の社長を勤める事ができるのだが、艦長の仕事を勤めるのには大変な能力を必要とする。

軍艦のなかでただ一人艦長だけが孤独に耐える環境に置かれているのは、戦闘に際して自分だけの判断で直ちに事を決定する習性を身につける為の一つの精神修養の座かも知れぬ。

艦長としての仕事を立派に遂行するには、咄嗟に状況を判断して誰に相談することもなく直ちに決定して実行するという精神力と、正確な判断が出来る知識、経験との他に、決定を実行するための実技の技能を持っていなければならぬ。艦長の実技の技能で素人にも判り易い技能は操艦の技能である。ボートのチャージの腕前がタラップへのボートの達着を見ればすぐ判るように、軍艦の動きを見ていると素人の見物人にも操艦の技能の程が判るような気がする。



軍艦は当直将校が操艦するとき、航海長が操艦するとき、艦長自身が操艦するときがあるが、出入港のときと戦闘のときは艦長自身が操艦することになっているようである。重巡(七千トン以上の巡洋艦を重巡と言っていた)四隻の編隊航行で、猪村が乗っていた軍艦高雄は三番艦であり、敵の潜水艦の眼をごまかすためのジグザグ航法をしていた時である。艦橋で見学していた猪村がほんのすこしの時間よそ見をしていた間に二番艦の艦尾がすぐ眼の前にあった。わが艦の艦首が危うく二番艦の艦尾に衝突しそうに見えた。しかし高雄の艦長は操艦の技能にかけてはベテランである。猪村がびっくりした時より遙か以前から前艦の動きがおかしいことに気がつき後続の四番艦には影響を及ぼさないように少しずつ自艦の動きを修正して、今や衝突の危険から確実に抜け出した所である。

二番艦の艦長がどう間違ったのであろうか、彼が自分の操艦の誤りに気付き、その誤りにもかかわらず大事故を起こすこともなくすんだ幸運に安堵の胸をなで下ろしていると思われる頃に、高雄の艦長は信号兵を呼んで小声で何か命令した。信号兵は平素訓練されている通り、大音声をあげて艦長の命令を復唱した。

「 …に信号。カヨカ。本文。据え膳のお尻さわれぬいくさ船。終わり」

カヨカとは艦長より艦長へと言う略語である。聞いていた猪村は腹を抱えて笑い出しそうになったが、艦橋にいた他の連中は皆にこりともせず艦長傑作の川柳を完全に無視していた。艦橋で笑ってはいけないのだろうと猪村も笑いをかみころした。

その時艦橋にいた航海士の少尉に後になって聞いてみたが、「据え膳のお尻さわれぬいくさ船」に似た文句は昔から沢山あって、誰も余り面白いとは思わないのだそうである。軍艦伊勢の艦長にあてた「お伊勢さん」ではじまるどど逸が一番艶のある信号だったそうである。航海士の話によると、二番艦の艦長は軍務局から転勤してきたばかりで、長年の陸上勤務で潮気が抜けていて操艦の 腕も落ちているのだろうと言うことである。それにしても、こう言う川柳やどど逸が沢山あるほどニアミスが多いということは、艦長としての操艦には相当高度の技能を必要とする証拠のようにも思われた。

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