不思議に思ったのは艦長と副長との関係である
ガンルーム等では副長のことをコンマと言っていた。猪村は最初「小馬」かと思っていたが、これはコマンダーという英語をなまった言葉であった。英語の辞書で見ると、海軍用語のコマンダーという言葉は本来は小型艦の艦長という職名で、これが後に階級名を表す海軍中佐となり、更にその海軍中佐が勤める職名である大型艦の副長という意味に使われるようになっている。日本海軍で言うコンマは専ら副長を意味する。
猪村が乗艦実習で最初に不思議に思ったのは艦長と副長との関係である。早い話が、副長というのは艦長の女房役だと考えていた。確かに女房役の仕事をしている。艦内の整理整頓だとか、諸日課の実行、規律の維持などの細かな仕事は副長の責任である。猪村が不思議に思ったのは、この女房役は自分の責任範囲の仕事に関しては、亭主役である艦長の意向を少しも考慮していないし、艦長の方はまた副長の仕事振りには絶対に口を出さない点である。
猪村がタブガンに質問したことは、
「海軍の規則では、副長は艦長の命を承け何々すべしと書いてありますが、今まで乗ってきたどの軍艦でも、副長は艦長の意向など全然気にしないで専ら自分の信念に従って自分の仕事をやっているようですが、あれで艦長は困らないのですか」という質問である。
「艦長の意向を全然気にしてないというのは少し極端な言い方ですが、副長のなすべき仕事はちゃんと決まっていて、どうすればその仕事を立派にやりとげられるかと言うことで副長の頭は一杯になっていますから、副長が艦長の顔色を伺っていないことは確かでしょう。艦長も艦長としての仕事が決まっていますから、副長の仕事にロだしするようなことはないですね」
「軍艦全体の責任者である艦長が副長の仕事に口だししないで、艦長自身困ることはありませんか」「困る事はあるでしょうね。僚艦の艦長が何かの用事で来艦した時に、その僚艦の艦長に自分の所 の副長のやりかたについてのぐちをこぼす艦長がいるそうですから」
「自分の部下である副長を自分の思う通りに使えなくて、第三者にぐちをこぼすなんて、その艦長の恥になりませんか」「そこの所の考え方が少し違っているようですね。艦長としては、コンマの仕事にロだしするごときは艦長の恥と考えているようですね」
猪村はそんなものかなあと思ってケプガンの話を聞いていたが、後年、猪村が株式会社の取締役となり、その子会社の社長となって日本の普通の社会の習慣を経験してみると、日本海軍での艦長と副長との間の関係は、日本の普通の社会とは「そこの所の考え方が大分違っていた」ように思えた。株式会社の法律では取締役社長も、技術部長を委嘱された取締役も取締役として会社の経営に対しては平等な発言権を持っており、そうした取締役の互選で社長が決定されることになっているが、どこの会社でもこの法律の精神に則った運営はしていない。代表権のある取締役副社長を含めた取締役全員が社長の家来である。社長がお殿様で万事社長の命令が実行されるという形態で運営されているが、実際に社長が命令を出しているかというとそうではない。万事下からの稟議が段々決済されて上に上がってきてこれが社長によって決済されたときに社長命令になる。従って社長命令に対しては社員全体が関与意識を持ってその遂行に努力する。日本流の民主的な運営で、社員全員が関与意識を持って熱心に働くのだから業績は向上する。然し、もし業績が向上しなかったとき誰の責任で誰を入れ替えれば業績が向上するか、それは分からない。こういう日本流のやり方は戦争の時は都合が悪い。敵の魚雷がこちらへ進んで来ていてその航跡が見えている。どちらへ舵を取ってこの魚雷を避けようかという時に稟議によって舵の角度を決めるわけにもゆかぬ。そこで海軍では、少なくとも軍艦では、日本の一般社会と違ったやり方をしていたのだろう。